秋野不矩は1908年(明治41年)7月25日に静岡県磐田郡二俣町(現・浜松市天竜区二俣町)で生まれた日本画家である。絵本画家の秋野亥左牟は次男である。
千葉県の石井林響に師事した後に京都へ移り西山翠嶂塾「青甲社」に入門する。日本画家の沢宏靱と結婚し6人の子供を育てながらも、その実力に注目を集められ自分の子供をモチーフとした人物画や花鳥画などを描いていたが、1948年(昭和23年)に世界で通用する新しい日本画を創造するべく同志達と「創造美術」(現・創画会)を結成、西洋画の特質を取り入れた作風で数多くの作品を生み出した。これにより後の日本画の発展に大きく貢献することとなる。
1962年(昭和37年)にインドのシャンチニケータンのビスバーバラティ大学(現・タゴール国際大学)へ日本画の客員教授として招かれた際インドに強く心惹かれ、生涯14回にも及ぶ渡印を重ね自然や建造物、生活風景、文化などをモチーフとして多くの作品を生み出した。インドの画材を用いて描かれたそれらは所謂「日本画」とは一線を画し、力強くダイナミックな筆遣いと明確で瑞々しい色彩に溢れている。
1991年(平成3年)に文化功労者顕彰、1999年(平成11年)に文化勲章を受章。前年の1998年(平成10年)には故郷に天竜市立秋野不矩美術館(現・浜松市立秋野不矩美術館)が設立された。2001年(平成13年)10月11日、京都の自宅アトリエにて心不全により死去。93歳であった。