小杉放菴(放庵)は1881年(明治14年)12月30日に栃木県上都賀郡日光町山内(現・日光市)にて生まれた洋画・日本画家である。洋画を描いた頃の号は「未醒(みせい)」、本名は国太郎(くにたろう)。父は日光二荒山神社の神官であり国学者であった。
幼少期から絵が得意であり、中学校を一年で中退し1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉(いおきぶんさい)の内弟子となって油絵・水彩を学ぶ。一時は師に無断で出奔し白馬会に入るも馴染めず、病も重なり帰郷。五百城文哉の許しを得、数年の修業を経て本格的に画家を志し改めて上京する。小山正太郎の画塾「不同舎」に入って「未醒」と号し主に太平洋画会へ出品、1902年(明治35年)同会会員となる。また、近事画報社に入社し漫画や挿絵でも名を馳せ、国木田独歩にもその実力を認められ日露戦争では従軍記者として貢献した。1910年(明治43年)には第4回文展にて「杣(そま)」が3等賞を受賞、翌年の第5回文展にて「水郷」、さらに翌年の第6回文展では「豆の秋」がともに2等賞(当時の最高賞)を受賞し画壇での地位を確立する。その画才はかの夏目漱石も絶賛したほどである。
1913年(大正2年)、かねてからシャヴァンヌに強い憧れがあったこともあり渡欧、フランス、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシアなどを周遊。この時パリで池大雅作「十便帖」の模写を目にしたのをきっかけに、自らの内にある西洋芸術への違和感と東洋芸術への憧れを募らせ始め、南画調の水墨画や花鳥画を描き始める。帰国後、再興日本美術院に参加するもわずか7年で脱退。新たに春陽会を設立し、1925年(大正14年)には東京大学安田講堂の壁画「湧泉」「採果」などを制作するも、号を「放庵(後に放菴)」と改めたあたりからもっぱら日本画を主に描くようになる。日本画の作風は大らかさと緻密さを兼ね備えた明るい筆致が特長であり、柔らかく繊細な花鳥画とどこかユーモラスな人物画という二面性を持っている。「良寛」や「芭蕉」といった歴史上の人物を描いたものや、自分の孫をモデルにした「金太郎」シリーズが代表作として挙げられる。
1964年(昭和39年)4月16日に逝去。82歳であった。
来歴
1881(明治14)年 12月29日、日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)の神官であった小杉富三郎とタエ夫婦の第6子として、栃木県日光で生まれる。
1896(明治29)年中学校一年次修了の後退学、五百城文哉の内弟子になる。
1897(明治30)年五百城文哉に無断で上京し白馬会の研究所に通うが、半年ほどで病を得て帰郷。
再び文哉のもとに帰る。この頃から「未醒」と号する。
1899(明治32)年師の許しを得て再び上京、小山正太郎が主宰する画塾・不同舎に入る。
1902(明治35)年太平洋画会の会員となる。
1903(明治36)年近事画報社に入社。
1904(明治37)年日露戦争に記者として従軍し、画報に通信する。
1906(明治39)年国木田独歩の仲人で、日光町七里の相良楳吉の長女ハルと結婚。
1907(明治40)年長男・一雄が誕生。
1910(明治43)年第4回文展に「杣」を出品、3等賞受賞。
1911(明治44)年第5回文展に「水郷」を出品、最高賞であった2等賞を受賞。
1911(明治44)年第6回文展に「豆の秋」を出品、二年連続で2等賞受賞。
1913(大正2)年渡欧、パリにて池大雅作「十便帖」と出会い日本画に目覚める。
1914(大正3)年ヨーロッパより帰国、横山大観らとともに日本美術院を再興、洋画部を主宰する。
文展より独立した二科会に審査員として参加する。
1920(大正9)年第7回院展の開催中に洋画部同人全員で脱退する。
1922(大正11)年春陽会創立に参加する。
1923(大正12)年倉田放居士(白羊)から“放”の字をもらい、「放庵」と号す。
1924(大正13)年山本鼎らの農民美術研究所を母体として九科会が結成され、参加する。
5月まで中国に旅行する。
1925(大正14)年東京大学安田講堂の壁画を描く。
1927(昭和2)年松尾芭蕉の『奥の細道』の足跡を辿って、岸浪百艸居と東北、北陸を旅行する。
放庵の提唱により、『老壮会』が発足する。
都市対抗野球大会の優勝旗のデザインを手掛ける。
1928(昭和3)年小堀鞆音、荒井寛方らと栃木県出身日本画家有志による華厳社を組織する。
1930(昭和5)年妙高高原の赤倉温泉に別荘を建て、安明荘と号す。
1935(昭和10)年この頃より、放庵を放菴と署するようになる。
帝国美術院会員となる。
1937(昭和12)年帝国芸術院会員となる。
1939(昭和14)年ニューヨーク万国博覧会に「僧」を出品。
1944(昭和19)年第1回軍事援護美術展に「山翁奉仕」を出品。のちに日光小学校に寄贈される。
1958(昭和33)年日光市名誉市民となる。
1959(昭和34)年日本芸術院会員を辞退する。
1964(昭和39)年4月16日、82歳で逝去。