菊池契月は、1879年(明治12年)11月14日に長野県下高井郡中野町(現・中野市)で生まれた日本画家である。本名は完爾、旧姓細野。
幼い頃から絵を描くことが好きで、13歳頃から南画家・児玉果亭の下で絵画を学び「契月」の画号を授かる。画家を志し17歳で故郷を飛び出し京都へ移り、当初は南画家である内海吉堂に師事。しかし作風が南画系とは合わないと判断した吉堂の薦めに従い、18歳の時に四条派を引き継いだ菊池芳文の門下となる。後に芳文の娘と結婚し婿養子として菊池家を嗣ぐ事となる。
菊池塾に入門してからの活躍はめざましく、入門翌年には第4回新古美術品展へ「文殊」を出品し褒状一等を受賞。さらにその翌年には第2回全国絵画共進会展にて「資忠決死」で褒状一等受賞。その後も様々な展覧会で受賞を重ね、1907年(明治40年)から文展が開催されると毎年出品、受賞を重ねる。四条派の流れを汲んだ写実性と大和絵の古典的手法をもって歴史上の人物画を好んで描き、「敦盛」はその代表作である。大正期にはヨーロッパ視察の影響を強く受け、この頃の特徴が色濃く見られる「南波照間」は、1986年(昭和61年)の切手趣味週間に発行された特殊切手のデザインに選ばれている。後年になると大和絵と近代西洋絵画の技法を融合させた新古典的手法を確立、類い希なる清澄さをたたえた理知的で迷いのない線描をもって独自の境地を切り拓いた。
昭和に入ってからは京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)、京都市立美術工芸学校の校長、京都市立芸術大学名誉教授を歴任、平等院鳳凰堂壁画模写の指導にあたるなど後進の育成にも尽力し日本画の発展に大きく貢献した。1955年(昭和30年)9月9日、逝去。75歳であった。
略歴
1879年(明治12年) 11月14日、長野県下高井郡中野町(現・中野市)に生まれる。本名・完爾。
1892年(明治25年)この頃より南画家・児玉果亭に学ぶ。
1896年(明治29年)京都に出て、南画系の内海吉堂に師事。
1897年(明治30年)吉堂の推挙で菊池芳文の塾に移る。
1898年(明治31年)第4回新古美術品展にて「文殊図」が褒状1等を受賞。
1899年(明治32年)第2回全国絵画共進会展にて「資忠決死」が褒状1等を受賞。
1899年(明治32年)第5回内国勧業博覧会にて「愴秋」が3等賞を受賞。
以降、各種展覧会にて受賞を重ねる。
1906年(明治39年)菊池芳文の長女アキと結婚し、芳文の養嗣子となる。
1908年(明治41年)長男・一雄が生まれる。
1910年(明治43年)京都市立絵画専門学校の助教諭となる。
1911年(明治44年)次男・隆が生まれる。
1915年(大正4年) 第9回文展にて「浦島」が2等賞を受賞。
以降、毎年文展に出品し活躍。
1919年(大正8年) 第1回帝展審査委員となる。
1922年(大正11年)京都市立からの要請で欧州視察に派遣される。
1925年(大正14年)帝国美術院会員となる。
1932年(昭和7年) 京都市立絵画専門学校、京都市立美術工芸学校の校長となる。
1934年(昭和9年) 帝室技芸員となる。
1937年(昭和12年)帝国芸術院会員となる。
1937年(昭和22年)日本芸術院会員となる。
1950年(昭和25年)京都市立美術大学の名誉教授となる。
1954年(昭和29年)京都市名誉市民の称号を贈られる。
平等院鳳凰堂の壁画模写の指導にあたる。
1955年(昭和30年) 9月9日、75歳で逝去。