吉岡堅二は、1906年(明治39年)に東京・本郷(現・東京都文京区)で生まれた日本画家である。同じく日本画家であった吉岡華堂を父に持つ。当初は彫刻家を志すも、1921年(大正10年)野田九浦に師事し日本画に転じると翌年には「松上白鶴」で帝展初入選を果たし、1930年(昭和5年)には弱冠24歳で帝展出品作「奈良の鹿」が特選となるなど主に帝展で活躍する。
初期の作品は写実性を重視し、後に大和絵の画風に移りゆくが次第に前衛的な日本画のあり方を求め作風も大胆かつ豪快になっていく。当時の日本画界において常に革新派に身を置き、福田豊四郎らとともに新日本画研究会、新美術人協会を結成、戦後には反官展を掲げ福田に加え山本丘人や上村松篁らと創造美術(後に新制作協会日本画部となる)を結成するもそこから更に独立し創画会へと活動母体を移しながら、画壇に新たな風を送り続けた。
1950年(昭和25年)に第3回創造美術展にて「楽苑」が芸術選奨文部大臣賞受賞、1970年(昭和45年)には第34回新制作展出品作「鳥碑」が日本芸術院賞を受賞する。また法隆寺金堂壁画再現模写事業に携わり、1942年(昭和17年)に東京藝術大学教授に就任し後進の育成にも尽力、1966年(昭和41年)には同大学の中世オリエント遺跡学術調査団の一員としてカッパドキアの調査をするなど多岐に渡って活動していた。
1990年(平成2年)に83歳で死去、晩年を過ごした東大和市の自宅兼アトリエは東大和市郷土博物館によって年に二回数日間のみではあるが「東大和郷土美術園」として公開されており、同市は常設の美術館としての開館を目指し事業を進めている。