小野竹喬は、1889年(明治22年)11月20日に岡山県小田郡笹岡村(現・笹岡市西本町)で生まれた日本画家である。本名は英吉という。同じく日本画家である兄・小野竹桃の勧めによって14歳で京都へ出て竹内栖鳳に師事、「竹橋」の雅号を授かる。一生涯にわたって風景画を描き続けた竹喬であるが、初期においては日本画の伝統的技法と西洋画の写実性を融合させた作風であった栖鳳の影響を強く受け、西洋絵画の影響が色濃く見られる。
1911年(明治44年)に京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)別科修了、1916年(大正5年)の第10回文展にて「島二作」が特選となると、日本画の革新を目指して同窓生である土田麦遷(つちだばくせん)らと共に1918年(大正7年)国画創作協会を設立。第1回展に「波切り村」を出品。パリ、イタリアなど欧州へ渡航し、1923年(大正12年)には雅号を「竹喬」と改め、ヨーロッパ各地を巡ったことにより改めて東洋画においての「線」での表現を重視した南画の技法を色濃く打ち出した作風へと移りゆき、大正期における日本画の一時代を築き上げた。
1928年(昭和3年)に南画風技法を大いに活かした「冬日帖」を第7回国展へ出品、同年に国画創作協会が解散。帝展、文展に活動の場を移し、帝国美術院推薦、文展審査員、日本芸術院会員を歴任。京都市美術専門学校教授、京都市立芸術大学教授を務め、日展発足にあたり常任理事に任命されるなど後進の指導にも積極的に取り組んだ。年月の経過とともに作風が変化、深化していったが、それは時間や季節、天候などで常に移りゆく自然風景と重なり合うかのようである。全ての作品において、明るく澄み渡り素朴で柔らかな筆致の中にその一瞬の季節や日射しを見いだすことができる。
同時代の画家達が短命であったのと対称的に戦後においても画業を続け、出身地である岡山県笹岡市名誉市民に任命、文化功労者として表彰され、代表作の一つである「奥の細道句抄絵」を発表した1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。名実ともに近現代の日本画界を代表する画家として活躍を認められていたが、1979年(昭和54年)5月10日に京都にて死去。89歳であった。生前の功績を讃え、笹岡市では1982年(昭和57年)10月に笹岡市立竹喬美術館が開館している。