橋本関雪は、1883年(明治16年)11月10日に神戸市の坂本村(現・神戸市中央区楠木町)に生まれた日本画家である。本名は関一(貫一)。父は播磨明石藩お抱えの儒学者であり、「関雪」という画号も父が藤原兼家の逢坂の関にまつわる故事から名付けた。
父から漢詩、和歌、書画などを教わる傍ら、四条派の画家・片岡公曠の元で日本画を学ぶ。後に「東の大観、西の栖鳳」と評された京都画壇の中心・竹内栖鳳に師事。画塾「竹杖会」に入門し、1908年(明治41年)の第2回文展において「鉄嶺城外の宿雪」を出品、初入選を果たす。1916年(大正5年)には第10回文展にて「寒山拾得」を出品し特選となり、官展を代表する画家として確固たる地位を築く。
漢学に対する深い教養から中国の古典的題材を好み、憧れの地である中国にも幾度となく訪れその見聞を広め、さらに自らの芸術性へと昇華させていった。四条派の画法に加えて、中国の南画に注目しそこへ近代的な感覚を取り入れた「新南画」という技法の確立にその影響が色濃く出ている。しかし昭和期に入ると四条派の古典的な写実的作風を用いた動物画の名作を数多く生み出しており、代表作「玄猿」は昭和天皇の直讃を受け文部省買い上げとなる。
1945年(昭和20年)2月26日に死去。61歳であった。