中村正義は、1924年(大正13年)5月13日に愛知県豊橋市で生まれた日本画家である。
幼少の頃から病弱であったため美術専門学校への入学も叶わず独学で日本画を始める。それでも1946年(昭和21年)に日本画界の重鎮である中村岳陵に師事しその画塾「蒼野社」へ入塾すると、同年「斜陽」が第2回日展で初入選、翌年には第32回院展でも初入選を果たし、一躍画壇に名を馳せる。第6回日展では「谿泉」が特選となり、肺結核を患い制作活動中断を余儀なくされるものの36歳で当時最年少となる日展審査員に選ばれ、早世の天才日本画家・速見御舟の再来とまで言われ将来を嘱望された。この頃までの作品は、「セピアの正義」と言われるほど淡い色彩を多用した穏やかな風景画や人物画であった。
しかし正義は旧態依然とした日展の体質に我慢できず、日展審査員に選ばれた翌年には日展を脱退し蒼野社からも去り、革新と革命を目指し前衛的な作風へと挑んでいく。原色を多用し、絵の具を定着させる膠の代わりに接着剤(ボンド)を使用し蛍光塗料を用いるなど従来の日本画の画法から大きく逸脱した作品を積極的に生み出した。ポップアートを思わせる「三島由紀夫像」や、好んで描いた「顔」、「男と女」、「舞妓」シリーズなどが顕著である。他にも社会不安や現代社会の抱える問題を写し出した作品など、批判的精神を色濃く表した作品も多い。また、挿絵や舞台緞帳の原画、映画用絵画や舞台美術なども手掛けている。
1977年(昭和52年)4月16日、肺がんによる呼吸不全にて死去。52歳であった。