田崎広助は、1898年(明治31年)9月1日に福岡県八女郡北山村(現・福岡県八女市立花町)で生まれた洋画家である。本名は広次。幼少期より絵画に関心があり、父の反対によって美術学校への進学は断念したものの画家への夢を捨てきれず、福岡県師範学校(現・福岡教育大学)第二部を卒業すると家族の反対を押し切り上京。小学校の図画教諭として勤めながら、同郷の洋画家である坂本繁二郎に師事するも関東大震災により京都へ移り、小学校に勤務する傍ら聖護院の関西美術学校で腕を磨く。
1926年(大正15年)の第13回二科展にて「森の道」「山百合」「京都吉田山」が初入選し、画壇に認められる。後にヨーロッパへ絵画留学し、セザンヌを主とする印象派の影響を強く受け、サロン・ドートンヌに「パリの裏道」など2作が入選。帰国後は安井曾太郎に師事し、東洋的自然観や日本的油絵様式に印象派の想像力を融合させた独自の作風へと昇華させ、大胆でありながら質実剛健な構図とインパクトの強い配色は素朴だがどこかユーモラスである。主に風景画、中でも富士山や阿蘇山、浅間山など日本の名山を多く描き、日本芸術院賞を受賞した代表作「初夏の阿蘇山」を筆頭に阿蘇山を好んで描いたため「阿蘇の田崎」とも呼ばれている。晩年は富士山を題材とした赤富士を多く描いた。
1968年(昭和43年)に勲三等瑞宝章受章、1975年(昭和50年)には文化勲章受章、文化功労者に顕彰されている。1984年1月28日に死去。85歳であった。