竹内栖鳳は、1864年12月20日(旧暦:元治元年11月22日)に京都で生まれた日本画家である。本名は恒吉。
四条派の土田英林の元で絵を習い始め、17歳で同派であり当時の京都画壇を代表する画家であった幸野楳嶺の私塾へ正式に入門を許される。楳嶺から「棲鳳」の雅号を受け、翌年には私塾の工芸長となり各種博覧会で受賞を重ね、「楳嶺四天王」筆頭と呼ばれるほどの早熟した才能の持ち主であった。
1887年(明治20年)に絵師として独立し2年後の1889年(明治22年)に号を「栖鳳」と改めると、母校である京都府画学校に出仕し京都の若手画家の先鋭として名を馳せていく。四条派を軸としながらも円山派や狩野派、大和絵など諸派の特長を積極的に取り入れた画風は、寄せ集めという揶揄の意味を込めて「鵺派」と批判する向きもあった。しかしパリ万国博覧会の視察とヨーロッパの絵画事情の調査を兼ねて欧州各国を7ヶ月に渡り旅した栖鳳は、写実的表現の重要性を痛感し西洋画の画法をも取り入れ、「西洋かぶれ」と非難される事も厭わず画壇の古い習慣を打ち破るべく新しい表現技法に挑戦していった。その為栖鳳の画風は多様性に富んでいるがその根幹にある写実性は揺るがず、日本画の近代化に大きく貢献したと言える。「東の大観、西の栖鳳」と並び称せられ、特に動物画を得意とし「獣を描けばその体臭までも表す」と言われるほどであり、代表作である「班猫」は重要文化財に指定されている。
1937年(昭和12年)、横山大観と共に第1回文化勲章を受章するが、その5年後である1942年(昭和17年)に77歳で死去。