1910年に、憧れの地であったパリへ移り5年間制作活動を行う。この頃の作品にはキュビズムを始めとした新しい表現技法を取り入れたものが多く、初期の代表作である「I and the Village」や「七本指の自画像」などに顕著に見られる。故郷に戻り妻ベラと結婚したシャガールは彼女を生涯に渡って深く敬愛し、その愛情や結婚をテーマに幻想的で鮮やかな色合いを用いた作品が多い事から別名「愛の画家」と呼ばれている。結婚と同年に描かれた「誕生日」はシャガールの誕生日にベラが花束を渡す姿をモチーフとしており、「色彩の詩人」と言われるにふさわしい柔らかで明るい色使いと伸びやかな線描を用いて新婚生活の浮き立つような幸福感を表している。
その後一旦はパリに戻ったが、第二次世界大戦によりユダヤ人であるシャガールはアメリカへと亡命する。時を同じくして故郷ヴィテブスクがナチスの侵攻によって攻め滅ぼされ、またその三年後には最愛の妻ベラが急死し、強い孤独感と喪失感、異国で暮らす心許なさが後の作風に強く影響を与え、ユダヤを主題にした作品や流浪民族、異邦人の悲哀など人生における苦悩が作品のベースとなった。バレエの舞台背景画である「アレコ」がその代表作と言える。
終戦を機に再度パリへ戻ったシャガールはフランスでの永住を決意、フランス国籍を取得する。その後、絵画のみでなくステンドグラスの制作や版画、パリ・オペラ座の天井画など幅広く手掛けた。1966年に17点の連作「聖書のメッセージ」をフランス国家へ寄贈、これを機にシャガールと親交があった当時のフランス共和国文化大臣アンドレ・マルローの提言によりニース市に1977年「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」(現:国立マルク・シャガール美術館)が開館。
1985年3月28日死去。