画家を志して上京し川端画学校洋画科で藤島武二に師事、また個人的に安井曾太郎を師と仰ぎ、洋画を学ぶ。1927年(昭和2年)、「白き壺の花」で第14回二科会に初入選し1936年(昭和11年)には二科会会員に推挙され、初期の代表作「婦女三容」を完成させるなど、順調に活躍し始める。
師であり「デッサンの神様」と呼ばれた安井曾太郎も一目置くほどデッサン力に優れ、戦時中はその実力を買われ従軍画家となった。戦争記録画として最も有名な「山下、パーシバル両司令官会見図」を描き第2回帝国芸術院賞を受賞し、他にも数多くの戦争記録画を制作する。
戦後は熊谷守一らと共に第二紀会を設立し、戦前から戦時中にかけての徹底した写実表現から荒々しいタッチへと画風を変遷させながらも「人物」を主なテーマとして精力的に作品を製作する。晩年には代表作「レ・トロワ・グラース」など花と裸婦を主題として色彩豊かな作品を描くようになり、「色彩の魔術師」と評される。また雑誌や新聞小説の挿絵、女優や歌手を描いた作品などでも人気を博す。同時に金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)の教授や多摩美術大学教授、日本美術家連盟理事長、二紀会理事長などを歴任し積極的に後進の育成にも尽力した。
1974年(昭和49年)10月13日、腸閉塞による心臓衰弱のため死去。69歳であった。
死後、1980年(昭和55年)には生誕地である小松市松崎町にて宮本三郎記念美術館が開館。1998年(平成10年)には遺族から小松市と世田谷市へ遺作である油彩画やデッサンなどの作品群が寄贈され、2000年(平成12年)に小松市立宮本三郎美術館が開館し(松崎町の記念美術館は宮本三郎ふるさと館としてリニューアル)、2004年(平成16年)に世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館が開館した。小松市立宮本三郎美術館では、「デッサンの奇才」と呼ばれた宮本三郎にちなみ2011年から「宮本三郎記念デッサン大賞展」と題したデッサンのコンクールを開催している。