1888年(明治21)、京都市生まれの洋画家。出生時に龍三郎と命名されたが、まもなく良三郎と改名。この名は26歳の1914年(大正3)まで使われた。
京都府立二中を退学し、伊藤快彦(よしひこ)の画塾、ついで浅井忠(ちゅう)の聖護院(しょうごいん)洋画研究所(のち関西美術院)に学ぶ。1908年(明治41)渡仏してパリのアカデミー・ジュリアンに通い、翌年からルノアールの指導を受ける。昭和初めから、肉筆浮世絵、琳派(りんぱ)、南画などの伝統を独自に近代化し、「桜島」「裸婦扇」「薔薇(ばら)」など、豪放華麗な梅原芸術を打ち立てた。このころから油彩に岩絵の具も用い始める。こうした自由闊達な精神によって、西洋の単なる模倣ではない、日本の文化に根ざした油絵を作り出したのである。少年時代より良きライバルであった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と称された。また北京(ペキン)へ6回旅行し、「紫禁城」「姑娘(クーニャン)」ほかを制作する。52年(昭和27)、文化勲章を受ける。57年に「富士山図」が朝日賞を受賞。カンヌほか南フランス、イタリアに制作旅行を繰り返す。花の静物、裸婦などに自由奔放な画境を示したが、86年(昭和61)1月16日、97歳で没。