東郷青児は1897年、鹿児島生まれの洋画家である。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。
青山学院中学部を卒業。この青山学院が青児の由来だと言われている。有島生馬(ありしまいくま)に師事し、また作曲家の山田耕筰(こうさく)からヨーロッパの新芸術思想を啓示され、1916年(大正5)二科展に未来派風の「パラソルさせる女」を初出品、二科賞を受ける。1921~1928年(昭和3)フランスに留学。帰国した1928年の二科展に「サルタンバンク」ほかの滞欧作を特陳して昭和洋画奨励賞を受ける。
彼の描く独特で幻想的な作品の多くは女性が目を瞑り、祈りか悲しみかそれとも瞑想なのか、と見る者の心を掴んで離さない。独特の女性像を描き続けた東郷青児はこの高い技術力を武器に洗練された美意識と唯一無二の作品を多く輩出した。洋画の世界観というものは分かりづらく、玄人や絵画の学を持っている者にしかわからない、という状況を嫌った東郷青児は誰にでも理解でき、そして楽しめて共有できるものを目指し制作を続けた。その姿勢に通俗的だ、と批判する者もいたが、彼の作品の素晴らしさと多くの人々に支えられた事実はこれを間違えだと結果で示している。女性礼賛芸術と称された東郷だが、キュビスムやシュールレアリスムなど、様々な様式を使い自らの芸術を確立する旅をしている。そんな数有る東郷青児の作品の中でも高い評価を得ている作品が「赤いスカーフの女」である。天才という名を欲しいままにした東郷青児は、日本の洋画界に大きな功績を残した重要人物であった1976年(昭和51)には東京・新宿に東郷青児美術館が開館。1978年(昭和53)旅行先の熊本市で没。