奥村土牛は、1889年(明治22年)2月18日に東京府東京市京橋区南鞘町(現・東京都中央区京橋一丁目)に生まれた日本画家である。本名は義三(よしぞう)。16歳で梶田半古塾に入門、そこで生涯の師となる小林古径と出会う。28歳の時に雅号を「土牛」として生家である書店から「スケッチそのをりをり」を出版。雅号の由来は、丑年生まれのため父が中国寒山詩の「土牛石田を耕す」から引用した。
院展の初入選は38歳の時であり、遅咲きの画家であったが小林古径の教えである「写生の心」を第一とし努力をし続けた結果、70歳にして「鳴門」を描き上げると一躍現代日本画壇の頂点に上り詰める。百数十枚ものスケッチを重ねた渾身の作であった。
「線の達人」と言われた古径亡き後、強く影響された「線」での繊細な表現からもっとおおらかでのびのびとしたものへと作風が変化したが、その技法は絵の具や胡粉、顔料を何百回も重ねていくという非常に細やかなものであった。幾重にも塗り重ねられた色彩は深みと透明感を併せ持つ精妙な色合いを持ち、満開の桜を描いた「醍醐」や皇居に飾られている「富士」などが代表作である。
1962年(昭和37年)に文化勲章を受章。1990年(平成2年)には戦時中に疎開していた長野県南佐久郡佐久穂町に奥村土牛記念美術館が開館。同年9月25日に死去。101歳であったが没する直前まで絵筆を握っていたという。