1883年(明治16年)に京都市上賀茂(現在の京都市北区)の上賀茂神社社家次男として生まれた北大路魯山人(本名・房次郎)は、食に対する強い拘りやそれ故の発言などが多く世に知られているため美食家の印象が強いが、陶芸、絵画、篆刻、書道、漆芸、料理など多彩な才能を持った近代美術界における異色の芸術家である。生後すぐ里子に出され親戚中をたらい回しにされた挙げ句6歳で木版師であった福田武造の養子に落ち着いたため、養父の仕事を手伝いながら書や篆刻を独学で学び、上京した後一時期は「福田大観」の号を用い天井画や襖絵、篆刻などにおいて数多くの傑作を生み出している。
作陶のきっかけは山代温泉へ刻字看板を彫るために訪れるようになってからであり、料理が好きであったため自ら振る舞う料理を自らの手で制作した食器へ盛り付けるという欲求に基づくものであった。「器は料理の着物」との言葉からもその思い入れの深さがうかがえる。なお、魯山人の陶器は低温で焼き付ける手法を用いていたため脆く割れやすいが、それを補って余りあるほどの味わいを持っている。
1959年(昭和34年)12月21日、肝硬変により死去。76歳であった。