1922年(大正11)、東京生まれの画家。日本中を放浪していたことで知られる。
関東大震災によって、両親の郷里である新潟市に転居。3歳の時、重い消化不良で生死の境をさまよって、一命はとりとめたが、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患ってしまう。
その後、東京に戻ったが、父が昭和7年に他界。母は再婚したが、その義父は乱暴者であった為、母と子供3人は夫が不在時に逃、福祉施設へ転居。しかし、ここでも勉強についていけず、知的障害児施設「八幡学園」に預けられることになる。ここで「ちぎり絵細工」に目覚め、精神病理学者の式場隆三郎の目にとまって指導を受け、才能を開花させる事になる。
1938年銀座の画廊で初の個展が開催され、1月には大阪でも開かれて、清の作品は多くの人々から賛嘆を浴びた。梅原龍三郎も清を高く評価した一人であった。
18歳のときに放浪の旅へ。これが14年間続く。その理由は徴兵検査を受けることになっていたため、逃げたそうである。
21歳のとき、彼が在籍していた八幡学園の職員から強制的に徴兵検査を受けさせられたが、兵役免除となった。
山下清と言えば、ランニングにリュックを背負った姿が有名である。あの格好は最後の2年ほどしていただけで、最初は茶箱、そして、風呂敷と変化しき、最後にリュックとなったそうである。
驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げている。花火を手掛けた作品としては「長岡の花火」が著名である。
しかし、旅先では絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶を基に描くというスタイルだった。このエピソードから、清はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれている。
晩年には、東京都練馬区谷原に住み、「東海道五十三次」の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛けた。およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。1971年(昭和46)脳出血のため49歳の若さで死去。
日本のゴッホ、裸の大将と呼ばれた山下清。彼の貼り絵、油絵は、温かい色調で童話の挿絵のようなどこか懐かしく、郷愁を呼ぶような作品ばかりである。
上記以外の主な代表作品に「諏訪大社」「ひまわり」「カーネーション」などがある。