日本画家。1905年(明治38)1月5日、 北海道札幌市生まれ。1922年(大正11)に北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)師範科を卒業し、画家になることを決意して女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科へ入学。1926年(大正15)卒業後、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校で教鞭をとりながら制作活動に打ち込む。
第17回日本美術院展に「枇杷」で初入選を果たすも、この作品は後の画風とはかけ離れた静謐なものであった。繊細な線描写が美しいとされていた当時において、アクが強く型破りで大胆な画風は「ゲテモノ」と評され、幾度もの落選を経験し「落選の神様」と呼ばれた事もあった。だが、師と仰ぐ小林古径からの「ゲテモノと本物は紙一重。あなたのゲテモノを捨ててはいけない」という言葉に背中を押され、独自の個性を貫いていく。鮮やかな色彩や豊かな質感への拘り、溢れんばかりの力強さは1950年代頃から確立された。能や雅楽をモチーフとし、歌舞伎俳優の4代目中村雀右衛門との交流から、有名な助六の揚巻の打掛の墨絵も手がけた。
1964年、59歳になって版画制作も始め、その2年後には生涯のモチーフとなる「面構」シリーズを始める。また、1960年代から70年代にかけて日本全国の火山を描いたが、その後に再度富士山を描いてからは他の火山を描かないようになる。「面構」同様に、一生描き続けた「富士山」シリーズの始まりである。どちらも、モチーフとなる対象への圧倒的な共感とみなぎる生命力に満ちた作品群である。
1976年(昭和51)に勲三等瑞宝章を受章し、1982年(昭和57)には日本芸術院会員に、1986年(昭和61年)には文化功労者に選出される。1989年(平成元年)に文化勲章を受章する。
100歳で脳梗塞となるも療養しながら制作活動を続けていたが、2008年(平成20)1月16日に急性心不全で死去。103歳であった。従三位を叙位。