日本画家。1908年(明治41年)7月8日横浜に生まれる。本名は新吉という。
1931年(昭和6年)東京美術学校(東京芸大の前身)を卒業して研究科に進み、33年から35年までドイツのベルリン大学(現在はフンボルト大学)に留学。47年(昭和22)の第3回日展で『残照』が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。
東山魁夷の作品は何よりも温和で平明な描写のうちに深い情感を漂わせ、常に多くの人の共感を呼んでいる。彼にとって、自然は何よりも親しみ深いものであった。晩年まで、日本・ヨーロッパを問わず、自然との語らいを求める旅は続いた。旅に出かけ自然とふれあうことは、自然の営みの奥深さを知ると同時に、自身の心の内を深く見つめることでもあった。東山の風景画とはそうした画家の内面と、自然の風景が一つに合わさったところに生まれたものである。
『古事記』に「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる大和し うるわし」と詠まれているように、青い垣根のような緑に囲まれた自然を日本人は賛美する。東山の作品が多くの日本人を魅了するのは彼の作品には青系統が多いからかもしれない。青を基調とする作品は、『道』『雪原譜』『白夜光』など数知れない。
73年から唐招提寺御影(とうしょうだいじみえい)堂障壁画の制作に携わり、81年にこれを完成させた。千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出した。この制作を手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになった。画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多い。川端康成とも親交が深かった。
87年に所蔵していた自作を長野県に寄贈。90年(平成2年)には、同県にそれらを所蔵した長野県信濃美術館・東山魁夷館が開館した。平成11年5月6日死去。